カラ*スタ*ブログ

性のカタチを考える、京都発SOGIE学習サークル”カラ*スタ”の公式ブログです。

かと雑記帳#3 「カミングアウト」

 

どうも、今日も今日とて昼登校型人間、かとです。

先日、東京に行く機会があって、久々に大学(学部)のときの友達に会ってきました。同期がもう働いているというのは、なんだか不思議な気分ですね(うっすら焦りも)。さてさて、本日の話題は「カミングアウト」です。とても大きいテーマにしてしまったなぁ(笑)。なぜ今回このテーマにしたかと言いますと、まぁ単純なんですけど、最近、自分が所属する研究室の人にカミングアウトをし始めたから、ということになります。今までもカミングアウトをしたことはあるんですけど、色々考えている中で、昔と今で感覚が違うなぁと思うことがあって、少しだけそれを話してみたくなりました。2018年の私が思うカミングアウトについて、そんな感じで読んでいただければ幸いです。

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以下、Wikipediaより

カミングアウトcoming out)とは、これまで公にしていなかった自らの出生や病状、性的指向等を表明すること。英語の動詞形でカムアウトcome out)またはカムとも言う。逆に、他人の秘密を暴露することをアウティングouting)という。

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[はじめてのカム]

私が初めてカムしたのは大学2回生のときでした。それまではホントに誰にも話したことはなかったですし、SNSの類もまったくやっていなかったので、ある意味ぼっち生活をしていました(友達は普通にいたよ!(多分…笑))。当時の私は、その時の私なりに将来のことについて真剣に考えたり、友達や家族と過ごす中での違和感に悩んだり、はたまた恋に苦悶(今思うとあれが青春だったのか?)したりしていました。大学2回までの私は自分のアイデンティティの大半がセクシュアリティに関することになってしまう場面も多く、今思うと無自覚に、それを盾に沢山のことから逃げていた、そんな気がします。セクシュアリティを意識するあまり、自分の他の要素を見てあげられず、また同時に自分の大切なセクシュアリティも無下にしていた、そんな気もします。そんな悩みまくりな中、(この前記事にしたリジーさんの講演を含め)沢山の講演、些細な言葉、全力で泣かせてくれた音楽が、悔しい、変わりたい、逃げたくないと自分を奮い立たせてくれました。それはLGBTなんか関係なくて、真っ直ぐな思いが私にエールを送ってくれたんだと思いますね。自分に嘘をついていたことに気付き始めたのは、その頃だったのかもしれません。

そんなエネルギーに満ち溢れた状態で挑んだものの(?)、高校時代に一番仲の良かった友達へのはじめてのカムは、「涙ってこんなに出るんだ」と思うくらいに大号泣してしまい、自分でもびっくりしました(今となってはいい思い出です笑)。単純に、怖かったです。アウティングが怖いとか自分の居場所がなくなるのが怖いとかではなくて、友達に自分自身を明かさなければならないことが、また、それで友達がどう感じるかが分からなくて、怖かったです(多分)。結局、数時間ほぼ泣きっぱなしという形で、私の人生初のカミングアウトは無事終了しました。友達に言いたいことを喋った後は、何とも言えない達成感というか安堵感というか、なんていうんですかね、あれ、取り敢えず「終わった―」という感じでした(雑)。ただ雑な感想とは裏腹に、友達が「言ってくれてありがとう」と言ってくれたのは今でも覚えています。私にとっては、私を知る人が0から1になったという事実がとても心強かったですし、どれくらいかは分からないけれど自分自身で前に進んだという事実が自信になりました。いやぁ、楽しかった←

 

[カムすること]

私にとってのカムは、単に自分のセクシュアリティを伝えるというだけでなく、戦いであり、サプライズであり、青春なんだなぁと思っています(意味不明ですけど、割とマジメにそう思ってます)。少し不謹慎な話になってしまうかもしれませんが、私自身、カムするのはとても楽しいと思っています。自分自身でカムすると決めたのは、かと人生においてとても大きな(というか一番大きい)変化を与えてくれました。あのカムアウトがなかったら、こんなにも幸せで楽しくは生活していないだろうなと思うくらい、私にとっては大切で、素敵な時間でした。そういう経験を踏まえ、カムしなくていい社会(当たり前になっているという意味)というのもなんだか少しさみしいなぁと思ったりもします(勿論ほしいですけど!)。事件性や人権問題というような観点も含めて軽視することでないのは明らかですが、(世の中に浸透しておらず)カミングアウトしなければならないという現状だけではなく、逆にカミングアウトという概念があって、それができるという現状、両方の視点があってもいいんじゃないかと、私は思います。少なくともセクマイが浸透しきっていない今を生きている私にとって、そう考えることで少しだけ明るく生きている、そんな気がします。

 

[これからのカム]

割とオープンな私でも、みんなに自分から話すことはあまりありません(大学とかでこんなにアクティブに活動していても、私が当事者であることはあまり知られていないよう)。今回、研究室のみんなにカムしようと思ったのは、研究室で生活している中で出てくる奥歯にもやしがひっかかったような、あの「あーーーー、もうっ!」みたいなじれったさをなくす、それから、私がこんなに幸せで、どんだけみんなのことが好きかを伝える(すごいこと言ってるな、自分)ためなんじゃないかなと思っています。私がどういうことを思って生活してきて、どういう思いでみんなと接して、悩んで泣いて苦労して、でも今は笑ってこんなに楽しく過ごしてる、「すごいやろ、どや」、そうやって話したいなと思ってます(最後にはありがとうって言ってやる!)。うん、楽しそう。

 

[不安]

カムアウト、多くの人は不安なんじゃないかなと思います。かく言う私も、上の文であんなことを喋っておきながら、やっぱりカムする時はなんだかんだ不安な感じがしています。ただ、昔と比べると、少し不安の要素が変わった気がしています(というより、昔もあったけど気付けていなかったという感覚に近いかもしれません)。最近カムする上で、私は普通になってしまう、変じゃなくなってしまうということが、少し怖いなと感じます。特殊、特別とかじゃなくて普通だということを主張するためにやっているカムなのに、なんだか矛盾するような気もしますね。私はこの自分のセクシュアリティを私の中で上位に位置する魅力だと思っています(もしかしたら一番レベル)。私の中では大切なアイデンティティの"1つ"として認識していますが、カムすることでなんだか普通になってしまう、なくなってしまう、そんな感覚になります。セクマイが当たり前にいる社会を目指して頑張っているのに、それが実現した後、このアイデンティティなしに私は何を武器に戦っていけばいいのだろうか(別に戦うわけじゃないんですけど笑)?私の中で未だにセクシュアリティの存在が如何に大きいかを知った瞬間でした。ただ、こういう不安がある一方で、このカムをすることで、私自身を正確に測ることができるんだとも思っています。一度、セクシュアリティを無視して自分を見つめることで、もっと私を知ることができる、知らない私に気付ける、もっとこのセクシュアリテぃが好きになれる、そんな風にも考えています。少し楽しそうだと思いませんか?

 

 [両親]

 私は割とオープンにはなりましたが、まだ親には自分のことを話していませんし、話したくないと思っています(基本的に親以外ならばれてもいいかスタンスで活動しています)。けれど、同時に、絶対私の口からカムしてやるとも思っています。理由は色々あるんですけど、取り敢えず、フェアじゃない気がしています。まだ、大学に通う私は親に通わせてもらっている立場ですし、そういう意味でも、それ以外の部分でも全然自立できていないと思っています。この状態でカムしたとしても、優しい私の親はきっとNOの回答をしてくれない、というかできないと考えています。ん、全くもってフェアじゃない!私は両親がどう思って接してくれたのか、何を考えて育ててくれたのか、見てくれたのか、私の覚悟(というかカム)をどう思うのか、私は両親の核が知りたいと思っています。私は自分自身で立って、同じ目線で、YESもNOも全ての回答ができる、そんな風になってから話したいと思っています。一番大切な人だからこそ、一番愛している人だからこそ、真っ直ぐに思いを伝えたい、そして真っ直ぐに思いを伝えてほしい、そう思っています。ごめん、お父さん母おさん、もう少しだけ、待ってて!

 

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だーっと話しましたが、今回の話はあくまで私の思うカミングアウトについてです。人それぞれカミングアウトに対する思いがあると思うので、それを大切にしてもらえればと思います(みんなでそういう話もしてみたいですね)。今回は少し長くなってしまいましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました!

 以上、かとでした。